IT(情報技術)社会とコミュニティと民話
(日本民話の会 会報掲載 筆者:山城裕慈)
ある日、家族連れでにぎわうショッピングセンターで5歳の娘がほしがる100円のシールをレジへ、そこには同じシールを持って並んでいた女子高校生がいた。 なぜ高校生が幼稚園児と同じものを欲しがるのか不思議な気持ちになった。 さらにテレビゲームコーナーには幼稚園児から高校生・大学生までもが一緒に並んでいる。 一度遊べば画面の世界の主人公になってしまいバーチャルとリアルが置き換わるゲーム、社会や世間の中で生きてきた大人さえもバーチャルとリアル世界の錯覚を起し始める。 そんな過激なものを大人が開発して「子供の遊び」として子供に与えデジタルの麻薬になっても社会的規制がいまだできない。 逆に学校内では自転車乗り入れはだめ、休みの校庭は進入禁止、学校の回りの道路は先生たちや父兄の車が朝から進入し、車道と白い線で区切られただけの電柱だらけの危険な通学道、子供と手をつないで歩けない住宅道、その道も昔は子供の大切な遊び場、ビー球や缶けり、かくれんぼ、長縄跳びをしていた。 遊びでクリエータとして育てられ、友達とのコラボレーションを体得していた。 クリエータが育たぬIT社会、今までの人間の五感の範囲の尺度から無限の尺度になり、それを使うITモラルの教科書はまだできていない。 ITは利便性の裏にモラルの崩壊を招く、そのITの光と影の部分に光を当てなければ信頼を基盤とする情報化社会は崩壊するのではないかと思う。 全てを効率化していくITの世界では相手を意識せず個人の判断であらゆる情報をデジタル化して無差別に発信でき、初めてその情報に触れた子供達は全てを信じるであろう。 人の記憶はどんな悲しみでも時間とともに消えるがデジタル情報は人の手で消さないかぎり消えない、悲しみがデジタルになると涙や汗をださないペットロボットが頭をよぎる。 さて 先日、町内会の掃除で50歳の私に「そこの若い人、あなたは公民館の屋根に上って葉っぱを落としてください」。 町内ではマンションの前でたむろする若者がたくさんいるのに、なぜ私は若者だろうか? 我々が大切にしてきた「だれでもコミュニケーション」の町内コミュニティも若者が参加しなくなり過去のものになりつつある。 世代により二極化したコミュニティ、だれがどんな形でこれからつないでいくのだろう。 競争や戦いの世界をデジタル化するのではなく、その情報化社会の問題を浮き彫りにして、この社会にマッチした「コミュニティ」「世間」を再構築して継承すべき時期ではないかと感じる。 私は仕事として数年前に熊本の民話を100話のデジタル化を指揮した。 民放テレビで1年間放映され今もラジオで流れている。 その後 常田富士男さんの語りで「人吉球磨の民話14話」のCDROMを作成してきた。 当時 民話を図書館で調べたら、ほとんどの本がぼろぼろであった。 「早くデジタル化しないと昔話がなくなる!」それがデジタル化のきっかけである。 なかなか寝つかない子供、布団の中でTVゲームの恐怖を見せるのではなく、人の温かい語りで寝せるのが人間の育つ環境ではなかろうか。 デジタルであろうとアナログであろうとあくまで媒体素材である。 語りがお婆ちゃんでありお爺ちゃんであれば、きっと豊かな未来を創るクリエータが暖かい布団のなかで生まれているだろう。